「いてまえ打線」とは、大阪近鉄バファローズを象徴する強力打線の愛称である。大阪弁の「いてまえ(やってしまえ)」を冠したこの打線は、圧倒的な長打力と豪快な攻撃野球で、プロ野球ファンの記憶に深く刻まれている。なかでも1992年前後のラルフ・ブライアント、石井浩郎らを中心とした打線と、2001年にタフィ・ローズ、中村紀洋らが活躍した打線は、近鉄の歴史を代表する存在だ。
2001年にはチーム打率.280、211本塁打、770得点という圧倒的な数字を記録し、12年ぶりのパ・リーグ優勝を達成した。一方、球団は2004年のプロ野球再編問題を経てオリックスと統合され、近鉄バファローズとしての歴史に幕を下ろしている。2026年現在も語り継がれる伝説の打線について、歴代メンバー、個人成績、優勝の舞台裏、球団消滅後の歴史まで振り返る。
【意味・由来】いてまえ打線とは何か?大阪近鉄を象徴する豪快な攻撃野球
「いてまえ」は、大阪弁の「いてまう」に関係する表現で、「やってしまえ」「やっつけてしまえ」といった威勢のよい意味を持つ。
讀賣テレビの言葉に関する解説でも、牧村史陽の『大阪ことば事典』を引き、「イテマウ」は「イテシマウ」が縮まった表現として紹介されている。
この言葉が近鉄の打線に結び付いた背景には、相手投手を打ち崩すことを求める攻撃的な野球と、球場での応援文化があった。近鉄の応援団が使う掛け声とも結び付き、豪快な猛牛打線を表現する愛称として定着していった。1990年代前半にはメディアでも広く使われるようになった。
いてまえ打線は特定の9人を指す名称ではないここで押さえておきたいのは、「いてまえ打線」が特定のシーズンの固定メンバーだけを指す名称ではないという点だ。
近鉄は長年にわたって長距離打者を中心とした攻撃的なチーム編成を行ってきた。そのため、時代ごとに所属選手や打順は異なる。
代表的な選手には次のような顔ぶれがいる。
- ラルフ・ブライアント
- 石井浩郎
- 金村義明
- 大石大二郎
- 鈴木貴久
- タフィ・ローズ
- 中村紀洋
- 礒部公一
- 吉岡雄二
- 川口憲史
なかでも1992年前後と2001年は、打線の特徴を比較するうえで欠かせない2つの時代だ。
1992年前後はブライアントや石井浩郎の長打力に、大石大二郎の走力などを組み合わせた攻撃が特徴だった。
一方、2001年はローズと中村紀洋という圧倒的な長距離砲を中心に、礒部公一、吉岡雄二、川口憲史までが打点を稼ぐ布陣へと進化していた。
つまり、いてまえ打線の本質は単に本塁打を量産することではない。どこからでも得点できる攻撃力と、相手投手に休む暇を与えない打線の厚みにあった。
【1992年前後】近鉄いてまえ打線の元祖メンバーとブライアントの破壊力
1992年の代表的なスタメン1992年の近鉄バファローズは、仰木彬監督のもとでパ・リーグ2位となったチームだ。
この時代の打線を語るうえで中心となるのが、ラルフ・ブライアントと石井浩郎である。
代表的な打順は次のとおり。
1番・大石大二郎(二塁)
2番・新井宏昌(右翼)
3番・ラルフ・ブライアント(指名打者)
4番・石井浩郎(一塁)
5番・金村義明(三塁)
6番・ジェシー・リード(左翼)
7番・村上嵩幸(中堅)
8番・古久保健二(捕手)
9番・吉田剛(遊撃)
捕手には光山英和もおり、試合や投手との組み合わせによって起用が変わった。
この打線は、ブライアントと石井が長打で得点を生み出し、大石が出塁や盗塁で攻撃のきっかけをつくる構成だった。
ラルフ・ブライアントは38本塁打を記録1992年成績
38本塁打
打率 .243 / 96打点 / 119試合
ブライアントは1992年、119試合に出場して38本塁打、96打点を記録した。
打率は.243だったが、本塁打と打点で相手投手に大きなプレッシャーを与えた。
特に注目したいのは、三振の多さを恐れずにフルスイングを続ける攻撃スタイルだ。1992年には176三振を記録している。
打席での豪快さと、一振りで試合の流れを変える能力は、いてまえ打線という愛称にふさわしいものだった。
石井浩郎と金村義明が支えた中軸1992年成績
29本塁打
打率 .290 / 89打点 / 128試合
石井浩郎は1992年に打率.290、29本塁打、89打点を記録した。
ブライアントの一発だけに依存するのではなく、4番に石井を配置することで、クリーンアップの得点力を高めていた。
また、金村義明も三塁を守りながら打線の中核を担った。1992年の成績は打率.260、13本塁打、44打点だった。
そして1番の大石大二郎は、打率.269、6本塁打に加えて39盗塁を記録。長打力だけでなく、走塁によって相手守備を揺さぶる役割を果たした。
1992年の打線は長打と機動力の融合1992年の近鉄は、チーム打率.247、155本塁打、580得点、112盗塁を記録した。
打率はリーグ5位だったものの、本塁打と得点はリーグ2位。盗塁も112個を記録している。
この数字から見えるのは、単純に長距離砲を並べただけの打線ではなかったということだ。
ブライアントや石井が長打を放ち、大石らが走塁で相手を揺さぶる。1992年前後のいてまえ打線には、2001年とは異なる攻撃の幅があった。
【2001年】近鉄いてまえ打線の最強スタメンと驚異の打撃成績
2001年は、いてまえ打線がプロ野球史に残る破壊力を見せたシーズンだ。
梨田昌孝監督が率いた大阪近鉄バファローズは、タフィ・ローズと中村紀洋を中心に、リーグ屈指の攻撃力を発揮した。
2001年の主なスタメンと打順当時の代表的なスターティングオーダーは次のとおり。
1番・大村直之(中堅)
2番・水口栄二(二塁)
3番・タフィ・ローズ(左翼)
4番・中村紀洋(三塁)
5番・礒部公一(右翼)
6番・吉岡雄二(一塁)
7番・川口憲史(指名打者)
8番・ギルバート(遊撃)
9番・的山哲也(捕手)
この布陣の特徴は、3番と4番だけではなく、5番から7番にも高い得点能力を持つ打者が並んでいたことだ。
ローズと中村に対して相手投手が慎重になれば、礒部や吉岡、川口が得点機を広げる。
上位打線の出塁と中軸の長打が連動することで、相手チームにとって非常に攻略しにくい打線になっていた。
タフィ・ローズは55本塁打で日本記録に並ぶ2001年成績
55本塁打
打率 .327 / 131打点 / 140試合
2001年のローズは、打率.327、55本塁打、131打点という圧倒的な成績を残した。
特筆すべきは、55本塁打が当時の日本プロ野球シーズン最多本塁打記録に並ぶ数字だったことだ。
9月24日の西武戦では松坂大輔から55号本塁打を放ち、王貞治が1964年に記録した55本に到達した。
加えて、ローズは本塁打だけでなく出塁率.421、OPS1.083も記録。単に長打を打つだけではなく、打席全体で相手投手に脅威を与えていた。
中村紀洋は46本塁打・132打点の大活躍2001年成績
46本塁打
打率 .320 / 132打点 / 140試合
4番を務めた中村紀洋も、ローズに負けない成績を残した。
2001年の中村は打率.320、46本塁打、132打点。特に132打点はリーグ最多だった。
ローズの131打点を上回り、打点王を獲得したことからも、当時の中村がどれほど得点に直結する働きをしていたかが分かる。
ローズが55本塁打、中村が46本塁打。2人だけで合計101本塁打という数字は、2001年の近鉄打線を象徴している。
しかも両者とも打率3割を超えていた。長打力と確実性を高いレベルで両立していた点が、単なるホームランバッターの集団とは違うところだ。
礒部公一・吉岡雄二・川口憲史も強力だった.320
17本塁打・95打点
礒部公一は2001年に140試合へ出場し、打率.320、17本塁打、95打点を記録した。
打率3割を超えたうえに95打点を稼いでおり、ローズと中村の後ろを任される打者として申し分ない活躍だった。
26本塁打
打率 .265・85打点
吉岡雄二は127試合に出場し、打率.265、26本塁打、85打点を記録した。
6番打者としてこれだけの長打力を持つ選手が控えていたことは、近鉄打線の厚みを示している。
.316
21本塁打・72打点
川口憲史は打率.316、21本塁打、72打点をマークした。
7番にこれだけの打撃成績を残す選手がいることも、2001年の近鉄が恐れられた理由の一つだ。
上位から下位まで得点能力を備えた構成が、2001年のいてまえ打線を特別な存在にしていた。
【歴代最強比較】1992年と2001年のいてまえ打線はどちらが強い?
1992年前後と2001年を比較すると、同じ「いてまえ打線」でも攻撃の方向性が大きく異なる。
両時代の特徴を、代表的なスタメンとチーム成績から整理する。
出典:1992年の年度別チーム記録、2001年のNPB年度別成績。打線は代表的なオーダー。
2001年は本塁打・打率・得点で圧倒2001年のチーム打率は.280でリーグ1位。211本塁打もリーグ1位で、770得点もリーグ最多だった。
1992年と比較すると、2001年は本塁打が56本多く、得点も190点多い。
数字だけで見れば、2001年の打線が一段上の攻撃力を発揮していたことは明らかだ。
特に注目すべきは、チーム盗塁数が112個から35個に減っている点である。
1992年の近鉄は機動力を使って得点機会を増やしていたが、2001年は盗塁に頼らなくても、長打と連打で大量得点を狙えるチームだった。
【プロの結論】最強メンバーを選ぶなら2001年、いてまえの伝統を感じるなら1992年歴代最強のいてまえ打線を一つ選ぶなら、客観的なチーム成績を基準に2001年を推したい。
理由は明快だ。
- チーム打率.280
- チーム211本塁打
- チーム770得点
- ローズ55本塁打
- 中村46本塁打
- 78勝60敗2分でリーグ優勝
いずれも強烈な数字であり、個人の記録とチームの結果が一致している。
一方、1992年前後の打線には、長打力と走力を組み合わせる近鉄らしい攻撃野球があった。
したがって、純粋な打撃成績で選ぶなら2001年、いてまえ打線の攻撃スタイルの原型を楽しみたいなら1992年前後という評価が妥当だ。
【2001年リーグ優勝】北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁本塁打が生んだ伝説
2001年のいてまえ打線を語るとき、タフィ・ローズや中村紀洋の本塁打数だけでは説明できない。
優勝を決めた試合には、チーム全体の攻撃力と粘り強さが凝縮されていた。
2001年9月26日、北川博敏が歴史的な一発2001年9月26日、大阪ドームで行われたオリックス・ブルーウェーブ戦。
近鉄は3点を追う9回裏、無死満塁のチャンスをつくった。
そこで梨田昌孝監督が代打に送ったのが、北川博敏だった。
北川はオリックスの抑え・大久保勝信が投じた球を左中間スタンドへ運び、代打逆転サヨナラ満塁本塁打を記録した。
試合は6対5で近鉄が勝利。12年ぶりのパ・リーグ優勝が決まった。
この一打は、プロ野球史上初の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打として語り継がれている。
なぜ北川博敏の一発が特別なのか北川は2001年のレギュラー固定メンバーではなかった。
それでも、重要な場面で代打として起用され、シーズンを象徴する結果を残した。
ここに2001年の近鉄の強さがある。
ローズや中村だけで試合を決めるのではなく、吉岡や川口、さらに控え選手までが得点に絡む可能性を持っていた。
優勝を決めた本塁打は北川の個人記録であると同時に、打線全体がつくり出したチャンスの結晶でもあった。
リーグ優勝と日本一は別の結果2001年の近鉄は78勝60敗2分、勝率.565でパ・リーグを制した。
しかし、日本シリーズではヤクルトスワローズに1勝4敗で敗れ、日本一には届かなかった。
つまり、2001年は近鉄にとって歴史的なリーグ優勝の年である一方、日本シリーズ制覇を逃したシーズンでもある。
この違いを押さえておくことは、当時の成績を正確に理解するうえで重要だ。
【球団合併の経緯】近鉄バファローズ消滅といてまえ打線のその後
大阪近鉄バファローズはなぜ消滅したのか大阪近鉄バファローズの歴史は、2004年のプロ野球再編問題によって大きな転換点を迎えた。
近鉄グループの公式資料によると、野球事業は近鉄ブランドを全国に広める役割を担っていた一方、観客動員数の伸び悩みや選手の年俸高騰などによって経営負担が増大していた。
赤字が拡大するなかで、近鉄は2004年に球団事業からの撤退を決断する。
球団統合に至る主な経緯は次のとおりだ。
- 2004年6月13日: オリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズが合併協議入りを発表。
- 2004年9月8日: オーナー会議で球団統合を正式承認。
- 2004年9月18~19日: 日本プロ野球選手会が史上初のストライキを実施。
- 2004年11月30日: 近鉄が球団事業をオリックス野球クラブに譲渡。
- 2004年12月1日: オリックス・バファローズが誕生。
- 2005年3月31日: 近鉄側の球団運営会社である大阪バファローズが解散。
これらの日程は日本野球機構のパ・リーグ略史や近鉄グループの公式記録にも残されている。
いてまえ打線の歴史は2004年で終わったのか大阪近鉄バファローズという球団は消滅したが、その歴史や選手たちの功績まで消えたわけではない。
2005年から始まったオリックス・バファローズには、近鉄とオリックスの統合による歴史が受け継がれている。
ただし、ここには一つ要点がある。
現在のオリックス・バファローズは、単純に近鉄バファローズの名称を変更した球団ではない。
日本野球機構の球団名変遷によると、オリックス側の球団は次のような歴史を持つ。
- 阪急:1936~1946年
- 阪急ブレーブス:1947~1988年
- オリックス・ブレーブス:1989~1990年
- オリックス・ブルーウェーブ:1991~2004年
- オリックス・バファローズ:2005年~
2026年1月23日には、オリックス・バファローズが球団創立90周年を迎えたことを公式発表している。その球団史の起点は1936年の阪急野球協会だ。つまり、現在の球団には阪急・オリックスの系譜と近鉄統合の歴史が重なっている。
2026年現在も語り継がれる近鉄の攻撃野球いてまえ打線は、球団消滅後も野球ファンの間で語られる存在となっている。
その理由は、単に本塁打数が多かったからではない。
2001年のように投手陣が大量失点する試合でも、打線がそれを上回る得点を奪って勝利する。最後まで試合の流れを変える可能性を残し、観客に強烈な印象を与える。
そうした攻撃野球の象徴が、いてまえ打線だった。
近鉄の歴史を振り返ることは、同時にパ・リーグの歴史や2004年の球界再編を振り返ることでもある。
現在のオリックス・バファローズに残る「バファローズ」という名前にも、近鉄時代の記憶が重なっている。
【よくある質問】いてまえ打線に関するFAQ
Q1:いてまえ打線とはどういう意味ですか?
「いてまえ」は大阪弁で「やってしまえ」「やっつけてしまえ」という意味を持つ言葉。大阪近鉄バファローズの豪快で攻撃的な打線を表す愛称として使われた。
Q2:2001年のいてまえ打線の主力メンバーは誰ですか?
代表的な選手は、タフィ・ローズ、中村紀洋、礒部公一、吉岡雄二、川口憲史、大村直之、水口栄二、ギルバート、的山哲也。特にローズと中村の強力な3・4番コンビが打線の中心だった。
Q3:2001年のタフィ・ローズは何本ホームランを打ちましたか?
55本塁打を記録した。これは当時の日本プロ野球シーズン最多本塁打記録に並ぶ数字だった。
Q4:中村紀洋の2001年の打撃成績は?
打率.320、46本塁打、132打点。打点はパ・リーグ最多で、ローズとともに近鉄のリーグ優勝を支えた。
Q5:1992年のいてまえ打線には誰がいましたか?
ラルフ・ブライアント、石井浩郎、金村義明、大石大二郎、新井宏昌、村上嵩幸、ジェシー・リード、古久保健二、吉田剛らが代表的なメンバーだった。
Q6:いてまえ打線はなぜ消滅したのですか?
2004年に大阪近鉄バファローズがオリックス・ブルーウェーブと統合され、球団が消滅したため。近鉄の野球事業からの撤退には、観客動員の伸び悩みや選手年俸の高騰による経営負担が背景にあった。
Q7:現在のオリックス・バファローズは近鉄の後継球団ですか?
2004年の近鉄とオリックスの統合によって誕生した球団だ。ただし、球団の歴史は阪急ブレーブス、オリックス・ブルーウェーブの系譜にも連なるため、近鉄だけを単独の前身とすることはできない。
いてまえ打線は、大阪近鉄バファローズの歴史と大阪の野球文化を象徴する存在だった。
1992年前後はラルフ・ブライアント、石井浩郎、大石大二郎らが長打力と機動力を組み合わせ、攻撃的な野球を展開した。
そして2001年にはタフィ・ローズの55本塁打、中村紀洋の46本塁打を中心に、チーム打率.280、211本塁打、770得点という圧倒的な成績を残した。
12年ぶりのリーグ優勝を決めた北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁本塁打は、その攻撃力と最後まで諦めない姿勢を象徴する名場面である。
2004年の球団統合によって近鉄バファローズは消滅した。しかし、選手たちが残した記録や豪快な攻撃野球の記憶は、2026年になった今も色あせていない。
いてまえ打線の本当の強さは、本塁打の数だけではなく、試合終了まで相手に勝利を確信させない攻撃力にあった。
それこそが、1992年前後から2001年まで受け継がれた近鉄バファローズの野球であり、今なお多くのファンが伝説として語り継ぐ理由である。